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帯山6町内の歴史

熊本市
帯山6町内元自治会長  田中  一夫

この記事は、帯山6町内のホームページを公開した2009年6月現在の情報です。
当時の帯山6町内自治会長であった、田中一夫氏の寄稿によるものです。

鎌倉幕府の中期、安貞二年、西暦の1228年に当時の将軍・藤原泰時によって肥後の国地頭職・阿蘇家所領の内から、現在の立野(昔の瀬田村から横手村まで)託麻の地頭職兼健軍神社の大宮司として阿蘇三郎惟盛が任命されました。

その住居が現三郎一丁目、肥後銀行三郎支店より南に入った公園のあるあたりに在りましたが、70平方メートルぐらいの大きな土盛りの塚があり、それを「三郎塚」と云っていました。
昭和十八年健軍飛行場建設に伴い、誘導路となり、削り取られて現在は跡形も在りません。

明治時代になると、十四年に西村改喜、田中久平,船津幸二郎の三氏が、創立記念碑の周辺に居を構えて、入植開拓されて、三郎村の本格的な「まちづくり」が始まっています。

その託麻の地頭職・阿蘇三郎惟盛の名前から三郎を取り、「三郎村」と命名されたと、市バス通り帯山六丁目山本GSの横に在る「三郎創立記念碑」に記して在ります。

更に大正13年になると、それまで現在の交通センター辺りに在った陸軍の練兵場が、面積25万坪の大きな練兵場として帯山に出来ました。


昭和3年になると三郎集落も二十数世帯となり、三郎青年倶楽部が現在「帯山三郎老人憩の家」が建っているところに青年男女の研修、集落の集会所として建設されました。

昭和21年、公民館設置運営要綱に従い「三郎公民館」と衣替えして活動し、平成4年現在の「憩の家」が建設されるまで利用されていました。

しかし何といっても昭和33年帯山小学校が開校されて、健軍校区第一町内から30余世帯と児童20数名が「帯山校区」に編入された時から「帯山」と言う名のまちづくりとなりました。


以来50年余の間に、昭和39年、現東京塚一帯、二百数十世帯が尾上校区に分町し、平成19年には、帯山七・八丁目、五百数十世帯が七町内に分町しても、現在1530余世帯のマンモス町内として活動しています。

田中ビル前市営バス通り
田中ビルから尾上方面を望む
昭和38年その頃には珍しく大雪の日でした。遠くに見える街並みが尾上です。
現在体育堂が建っている場所
市営バス帯山終点延長記念式典
昭和40年8月1日、市営バス路線延長記念の花束贈呈式です。

2008年、熊本日日新聞に「くまもと地名あらかると」の連載があって、6月11日付けの「三郎」の掲載記事の切り抜きが手に入りました。前自治会長・田中様からいただいた資料と同じ内容で驚きました。